自転車撤去に遭遇してしまった!もみくちゃの日々・・

 先日烏丸御池下がるの大垣書店前 で自転車撤去が行われているのに遭遇した。またか!悪い予感はあった。四条、三条地域は毎日自転車撤去が行われているホットスポットで、通るたびにある種 の決意が必要な場所である。遭遇するたびに請負の非正規撤去員や責任者である京都市現業職員ともみくちゃになり、手足をつかまれながら、仲間の自転車を 守るために必死にならなければならない。そう仲間としか思えないのである。自転車乗りとしての悲喜こもごもが路上に置かれた自転車、一つ、一つから感じら れてしまうのである。
 目の前で次々に無造作に自転車がトラックに積み上げれていくのにこみ上げるものがこらえられなくなる。自転車のジェノサイドが 繰り広げられながら、(160万都市の中で年間8万台の撤去が行われている!)ユーモアで抵抗するほどの余裕などなかった。怒鳴り声と怒声が周りに響きわ たる。いいかげん顔を覚えられたみたいだ。京都市職員が「またこいつか!」、「こいつだな!」と確認しあってから、「いいかげんにしろ」、「公務執行妨害 で警察呼ぶぞ」と威圧的な大声を張り上げた。自分が私有地に運び込んだ自転車をひきはがそうと必死に手首をつかんでくる。こっちもまけじと「友達のチャリ だ」、「京都市は無料駐輪場を作れ!撤去はやめろ!」と大声で叫んで混乱状態を作り出し、書店にいる自転車の持ち主が気付き、自転車を避難するまでの時間 を作ろうとする。自転車の綱引きをしながら、できるだけオーバーリアクションで通行人に目立つように達振る舞う。
そうこうするうち「そうだ!撤去おかしいだろ」とたちどまって、援護射撃をする通行人が出現してきた。さっきまで勢いのあった京都市職員もさすがに戸惑いの顔を浮かべ、撤去のタイムスケジュールも気になった様子で、こっちをにらみつけながら「もういい」と叫び撤退していった。
 力の限りを尽くして持ち去らせなかった3台の自転車と共に、エネルギーを使い果たしてその場所に立ちすくむ。あたりの通行人の顔を見ると、何か 修羅場に立ち会った居心地の悪さを浮かべながら、こちらを一瞥して通り過ぎようとする。見たくないものを見せてしまったような、そんな出し物を路上で演じた気がしてきた。
アバンギャルド芸術が 見るものに対して、あまりに能動的に攻撃的に迫って、緊張状態を作り出してしまうのも、日常の風景がある種の戦争状態として作家に現前している状況を、無理やり可視的に表現しようとしていることからかもしれない。そんなことをふと思ってしまった。この社会があまりに狂っていて、居心地の悪さ、コンフリクトを作り出し続けていることを敏感に感じる作家の感性が、先鋭的に空間を異化させ普段見えないものを見せてしまう。風景から戦場へこれが現代アートの一つのテーマかもしれない。
戦場・・・。有料自転車駐輪場の中の隷属の首輪を自転車につけないものに振りかかる力の行使。「有料駐輪場か撤去か」という2者択一を迫りながら、都市の美観整備と言う名の貧乏人への攻撃が現実に進行している。
 烏丸御池ハローワーク前の路上では、、少しのバスの交通費を節約して仕事を探しに来た失業者の自転車が毎日撤去される。前に撤去前の警告ステッカーを自転車に貼っていた請負作業員と話した時、その人もそこのハローワークでその仕事を見つけたらしく、失業者への自転車撤去はひどいことだと話していた・・・・。貧乏人同士が削り合わされてなんなんだ。 
 自転車を撤去する条例があるからしかたないという現状追認と、法がモラルと化しながら「マナー違反」という非難が生み出され、抵抗しようとする者には警察力を背景に黙らせる恫喝が常に一体となって形成されている。法—規範—暴力という絡み合いの中で作られる空間構成にたいして、一人で抵抗することへの無力感を抱くからこそ、この場所でもっと多くの人とコミュニケーションをしたい、繋がりたいという欲求をもってしまうのだろう。さらに言えばもっとそれが濃密に可能になれば、都市空間は一変に変化するそのようなそんな確信を自分は常に持っているような気がする。それはなかなか誰かと共有できる感覚ではないのだろうけど、人と集いながら実験したり、物質化した何かを形成することにより、初めて分かち合えるものなのではないかと思う。

2010年8月に行った自転車撤去反対のクリティカルマスの写真

無料駐輪場を作れ!

京都の繁華街を疾走する自転車

通りがかりのおばちゃんたちから「そうや、がんばってくれ」という声援がとぶ



ps四条木屋町でビラ配り禁止の公安委員会の張り紙を発見!いつの間にこんなものが可能になったのか!