カッパたちの出現

カッパたちが出現しつつある。カッパたちはこの世界の荒涼とした砂漠にもはや耐えられなり、流れる水をもとめて、砂漠から脱出しようと移動を始めた.干からびた人間たちにはこの気配にきずき、その流れに加わるものもいたが、蜃気楼のような偽りのオアシスを求めて歩きさまようものが大半だった。
 カッパたちはもはや「賃労働」に自己実現もやりがいを見出すことをやめた。「賃労働」とは生にみずみずしさを与えてくれる自由な時間を掠めとる無為の行為総体だったからである。カッパたちにとって賃労働とは出稼ぎの時間であり、とりあえずの手段ができればそのうち 脱出するための生の一時的中断だったからである。少しの安定した仕事を求めて容赦なく蹴落としあいをおこなう椅子取りゲームに積極的に参加するのをやめ、ハローワークで求人を深刻そうな顔でさがす隣の人に愛着をいだくからである。
人間達が正社員に自分たちはなりたいと要求したとき、カッパたちは「自分たちは一日8時間、週5日以上も働きたい」と叫んでいるようにしか聞こえなかった。積極的に自由の時間をあげたいという言葉の滑稽さが岩だらけの砂漠に響き渡る。賃労働によって存在は摩耗し、この世界を感じる力を消耗つくされ、残りの時間は存在の回復に満たされる。余暇やリフレッシュ、癒しといった偽りの時間で。そしてまた機械の歯車のように時計のリズムに合わせてまわりだす。いつでも交換可能なものとしてハジキだされ、また取り込まれる酸素のように。カッパは吐き捨てられることへの反撃として抵抗を始める。自分たちを支配し踏みにじる巨大な機械の呼吸に。そして「賃労働」が生の中心に位置する時間ではカッパにとってはもはやなくなったことで、反撃の潜在的脅威は増していく。
 カッパ達は人間のように消費することの喜びをいだかなくなった。お金を使うという行為を嫌悪していたからである。この世界におけるお金とは、誰かへに命令することができる力そのものであることを直感的に感じられたからである。誰かを支配する行為に関心をいだかなくなった。そして何かをもつことへの愛着はうすれていき、何かを共有することへの欲求で満たされていく。カッパには私的な本棚がなくなってしまった。カッパが本を手に入れたとしてもそれが本棚に並べられると図書館の蔵書となったからである。カッパがいる場所には地下図書館が増殖していった。そこにはあらゆる種類の映像、音楽、本が共有されていく。カッパのパソコンはすべてが「フリーソフトウェア」でできていて、人間が旧式といって捨てた部品を組み合わせて作っていた。カッパが服をてにいれようとすると物々交換所にいっていらなくなったものを代わりに渡せばよかった。ものでなくてもよかった。誰かのために料理を作ったり、自転車修理の方法を教えたり。誰かのコンピューターの不具合をみることも重要な交換手段だった。ここではものよりも、渡しても渡してもなくならずに伝達されていく知の方がより共有されていく。ここにこれば毎日のように家庭菜園の方法から、発酵食品やエスペラント語の講座まであらゆる分野のワークショップがカンパ制でひらかている。そこで学んだ知識を使って街路のあちらこちらに家庭菜園が出現していった。DIYで生活のことならなんでもある程度できるようなった。専門家が特権的な地位を占めることをやめた。カッパたちの精通している知り合いに頼めばたいがいのことはことたりるようになった.
 カッパたちは「学校」に自分の子供を行かせることをやめた。「学校」こそが自分たちから表現する力をもっとも奪って来たからである。分かち合うことよりも蹴落とし会うことを学ぶ場であり、成長や発達といった概念によってこの世界の干からびた主体=人間になるように働きかけてきたのも「学校」だった。カッパたちはともに集まって自分たちの子供が学ぶための、オープンスペースを作った。何か表現したいことがあれば、その分野が得意なファシリテートしてくれる誰かを見つけてきて学ぶことができた。年齢も関係なく、上下関係なく共に学んだ。偉そうにする教師も先生もそこにはいなかった。だれもが学ぶ場において共通だった。カッパの子供たちだけでなく、人間の子供もその楽しそうな様子をみるにつけてかようようになった。そのうち賃労働を行っているものも、仕事帰りにその場所に通うようになり、そこは子供だけの場所ではなく、あらゆるものに開けれたカンパ制の空間になった。
 カッパたちはテレビも新聞も見ることを止めた。新聞がきちんとまともで重要なことを報じないと、愚痴をいう人間のようなことをやめた。そもそも新聞もテレビも自分たちのメディアではなかったからである。単なる一企業になんらかかしらの期待をするのを一切やめた。ただ自分たちがメディアになればよかったからである。カッパ達一人一人がオルタナティブメディアになった。ネットを通じて少人数で組織化しテレビやラジオや新聞になれた。そして電波が一部の巨大な企業に占有されているのをかいくぐり、無線LANをそこかしこで流通させた。海賊の電波が行き交い何もかもがp2Pを通じてやりとりされた。もう人間のようにプリズムされるような巨大なサーバは必要なくなった。メールもソーシャルネットワークも、コンテンツもp2pを通ってそれぞれがオルタナティブのメディアの巨大な波となり混線していった。
 カッパたちはみずみずしさを取り戻していった。自由の時間と創造的な実験によって生気を取り戻していった。何かに追い立てられることがなくなり、何かを感じ、何かを表現する存在の躍動性を取り戻して言った。その水気を帯びた呼吸は砂漠に巻き上げられ渦となって干からびた人間を巻き込むようになった。誰がカッパで誰が人間か少しずつ分からなくなっていった。カッパはいないようでどこにでもいるように感じられた。カッパたちは徐々にこの世界の風景を変えていた。いや見えていなかった風景を水しぶきとともに光を錯乱させ可視化していったのだ。蜃気楼が徐々に取り払われそこに新たな何らかの真実性が生み出されていった。カッパは出現しつつある。