ウォール街占拠の思想―広場の潜勢力の解放 ―

世界の金融の中心地ウォール街に、地下から這い上がったゾンビ達が突如出現し、交通を遮断し、日々増殖しながら、その不気味な存在を誇示し続けている。
祝祭か?夜な夜な深夜までジャンベや太鼓のリズムと共に踊り続け、日が明ければ、街路に繰り出し悲壮感よりも喜びに満ちた表情に満ち溢れながら、らんちき騒ぎを作り出す。
 世界中の政治家、マスメディア、巨万の富を得るマネーゲームのプレーヤ―に理解不能であり続けているのが、リーダーもいない、「明確」な政治目的、目標のない「群れ」が繰り広げる異形な光景である。いつものように、何か具体的な政策の嘆願のため、一度ばかりのデモを行い、また秩序が回復する状況と違うのか?例の労働組合の代表が政治家と会って、少しばかりのリップサービスとともに、何かが与えられたと錯覚するような3文芝居はうてないのか。
交渉不可能なモンスタ―!平日の昼間から公園にやってきて寝泊まりしながら、賃労働のリズムに束縛されず自由の時間を謳歌する者たち。
 占拠拠点の公園では炊き出しが3食行われ、無料の図書館やカフェがあり、毎日ニュースペーパーが発行され、シャワーも近所の支援者から提供される。暇があれば議論やチェスなどのゲームに親しみながら、食事や広報、睡眠、医療など20ものワーキンググループと共に、お金が介在しない開放的な空間が大都市のど真ん中に構成されている。この場所にはあらかじめ定まった目的など存在しない。日々参加者の自由な討議によって生成変化しながら、集団の意思が創造され続ける。一日2回の誰でも参加できる全体会議で、その場の維持や今後の行動の内容が話し合われるため、今後何が行われるか誰も分からないのである。
そうここは広場なのである。異質な者が歓待され、出会う、民主主義の実験場である。ここでは差異自体が豊かさを表わす、特異性が協働し合う場である。やつらには見えないが恐れを抱かせる何かがそこにあるのである。
 権利とは制度的に保証されるなにがしかではなく、集団的な力が表現するもの以外何であるのか。代表された政治機構が媒介して構成されるものではなく、今ここに集った力が充足し構成されるもの以外何を目的にするのか。交渉ではなく、力をこれが占拠のスローガンである。未知のウィルスはそこら中にまかれた。どこ知れずあらゆる都市で広場は出現するだろう、資本主義が排除したはずの百鬼夜行と共に!
http://occupywallst.org/