路上は安い!路上市の喜び

メキシコ流の買い物の醍醐味である路上市を今回は紹介します。路上市はメキシコシティのように常設の場所もあるが、グアダラハラは週に一度様々な場所で開かれる。周辺一体の道路を占拠して、所狭しと、様々なジャンルの店が路上に並ぶ。(自分の近所は数百mだが、大きい所では数キロに及ぶ)昼には人でごった返し、狭い通路をすれ違うのも大変だ。野菜や果物、生肉など食べ物を売る店が多いが、DVD・CD・ビデオゲーム(当然コピー。100円ぐらいからある)や服、帽子、お菓子、日用雑貨、魚など大抵の物が手に入る。それもスパーマーケットで買うより断然安い。野菜などは半額ぐらいの値段で買える。さらに、メキシコ料理の食堂や豚足や豚の内臓等の珍味が格安の値段で味わえるのもたまらない。
ネックは週に一度しか開かれないのと、朝8時ぐらいから始まり昼過ぎの3時には店が閉まってしまうことだ。自分の近所は日曜日だが,ほかのところは金曜や火曜だったりするので、いつ、どこで開かれるか把握していれば問題ないのかもしれない。最大の悩み所は野菜や果物、肉、魚などがキロ買いなことだ。野菜は大体2キロ単位で買う。家族の食材を一週間分買う人には当然だし、ちょうどいいのかもしれないが、自分が買うとなるとすこしためらってしまう。路上市を歩けば威勢のいい声で「ジャガイモ、2キロ、10、2キロ、10」と早口でまくし立てる声が聞こえて心地よいので、ついと思ってしまう。一キロで買えないことはないが、2キロ10ペソのところが、一キロでは6〜6.5ペソになってしまってお得感が薄れる。来ている階層も庶民的でスーパーマーケットの客層と全然違う。それもそのはずで、ス−パ−マーケットは大概の「先進国」以外の国では高級店である。幹線道路沿いに立地して、車で買いに来るような階層を主なターゲットとしている。「清潔感」や「高級感」を売りにし、路上とか市場より倍とかの値段で平気で売っている。こっちではスーパーで買うのがなんだか成金趣味に思えてきてしまうのが不思議である。庶民は路上市だけでなく、メルカドという屋内型の常設市場でも買い物をする。これも夕方の5時〜6時にはしまるので早い。メルカドには下ろしたての肉が冷蔵設備のないまま置かれていて、生肉の臭いが充満する独特の魅力がある。市場内を歩くと「いらっしゃい、いらっしゃい」とフレンドリーに話しかけられ、こっちも楽しくなってしまう。
自分はスパーで買い物をするのが当然の世代だが、今のメキシコで市場で買うように、昔は商店街で食材を買うのが当然だったのだろう。そういう意味でメキシコの騒がしくて、庶民的な風景がどうなっていくのか、流通面での変化が人々の生活様式や意識を変化させるのか気になるところだ。
路上市の写真

様々なフルーツが一年中食べられる

魚の店。エビが1kg、500円!安い。スパーは2〜3倍

エビと野菜のスープを作って食べる

路上レイブと大学機関

大学評議会の選挙が終わった次の日にグアダラハラ大学の門から出たところで路上レイブが行われていました。昼の2時ぐらいから大音量がキャンパス全体に響きわたっていまいした。授業をやっているとかお構いなしです。数日前も授業中の時間にチェ・ゲバラ追悼ライブ(10月9日が命日)をかなりの音量で中庭でやっていました。授業の声も聞こえず、教員も苦笑して休憩になり、クラスのみんなとプロテストソングばかりの曲を聴きました。
本題に戻ると路上レイブは爆音でダンスミュージックをかけ続け、ビールを片手に延々トークとダンスをし続けました。こっちの人はみんなダンスがめちゃくちゃうまいんですよ。子供を含めて。ヒット曲はダンスできる曲ばかり。自分はギコチないながらダンスを教えてもらって踊りました。ついでにいうとこっちの飲み会もフェスタと言って同じく音楽を大音量で流し、ダンスをしながら酒を飲みます。よく隣の家でフェスタをやるみたいで、重低音と歓声が夜中に聞こえてきたりします。音に関してこっちでは全然寛容みたいです。
そして飲む量も半端じゃない。355mLのビールを10本以上平気でみんな飲みます。自分もおごられ、どんどんビールを薦められましたがさすがに2本が限界だった。
驚くのはこれが大学が開いていることです。学生に聞くと「大学がやるのが当然だ。これは自分たちの権利だ」と言っていました。大学の前の道路を封鎖し、周囲に爆音をだしながらレイブをやるのが大学主催っていうのすごい。結構な人数が夜中の10時過ぎまで踊り、酒を飲み続けてました。
なんかこういうのを見ると、路上で抗議行動するのとかためらいがなさそうなのがわかる。道路封鎖とか路上レイブと本質的になにも変わらない。ある種抗議行動は祝祭空間だし、生の喜びを表現する場でもある。
さらにみんなビール瓶や紙コップを次々と道路に捨てる。路上を車とかが移動する空間として捉える考え方とは、かなり違う空間認識をしているようでおもしろい。
ついでに権利の話ですが、グアダラハラ大学はいろんな機関をもっています。社会運動が権利として要求し、作らせたものです。まずラジオ・グアダラハラ大学というのがあり、フォルクロールなど伝統音楽が流れます。NHKFMみたいな存在で、文化運動が作らせたみたいなことを学生が言っていました。また、先住民族共同体支援機構というのも持っています。自分のいるハリスコ州では多くの先住民族がいて、グアダラハラにも移民として劣悪な条件の中働いています。その先住民族に向けての医療や教育プロジェクト、新聞発行などをおこなっています。新聞を読むと、先住民族の闘争がのっていたり、明らかに先住民族の運動がこの機関を作らせたしか思えません。
これを見るとやっぱり日本の大学はもっと社会運動が活動できる機関を作るべきだと思います。もっと言えば社会運動が大学の共有財産を自覚化しそれを要求する圧力をくわえるべきだと思います。ひとつ思い浮かぶのが、最近できた一ツ橋大学にあるフェアレイバーセンターです。http://www.fair-labor.soc.hit-u.ac.jp/これは研究者の努力と労働運動の要求によって、アメリカにあるレイバーセンターを真似て作ったものです。UCLAのセンター長の報告を読むと、いかにアメリカではこの機関が労働運動に貢献するために、多様で、精力的な実践を行っているかが伺われ刺激を受けました。以下で日本語の講演録が読めます。
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/548/548-01.pdf



路上がおもしろい①

グアダラハラに来てまず一番印象的だったのが、路上でいろんな日用品や飲食物を売っていることだ。メキシコシティーには及ばないものの、そこら中の路上で商売が行われている。店に近い作りのものから、布を地面に敷いて商品を並べただけというものや、手で持てるだけの花や帽子、おもちゃを持って売っている人までいる。そしてその中では子供が物売りをしている比率もかなり高い。
飲食物はタコスからタマーレス、ポソーレなどが路上で定番の味である。これらを店の中で味わうのは考えられないし、路上で食べるからおいしい。
交差点では、信号が赤になるといっせいに、ジャグリングのパフォーマンスや自動車の窓吹きの人、花売り、お菓子売りが車の運転手の方へ群がっていく光景が見られる。
もし路上での商行為を禁止してしまったら、僅かながらの収入をこれらの行為で得ている膨大な都市貧困層の生計が成り立たなくなるだろう。(当然行政からの、都市を「環境浄化」しようとする圧力との、緊張関係におかれているが。)店を借りて商売するのにはかなりの元手がいるし、高い土地代を定期的に払い続けなければならない。路上では土地代がただだなのであり、物は店で買うより当然安い。インフォーマルセクター研究が明らかにしてきたように、都市での人々の生存維持保障の要として、路上の風景を捉えることができる。
また路上はおそらくグアダラハラだけで数千人以上に及ぶ野宿者や、お金のカンパを求めることで生活する人々と出会う場所である。特にそれらの人々が集中するセントロ(中心街)の高級ショッピング街は衝撃的である。ありとあらゆるものがお金を持っていれば手に入る一方で、極端なまでの貧富の格差を見せ付けられる。繁華街の一見豊かで、秩序だったその風景は金持ちだけが自由の空気を満喫できる「自由」しかこの社会には存在しないことを逆説的に写す鏡のようである。

自動車の窓拭きのおじさん

飲食物の路上での販売

メキシコサッカー観戦記

初めてメキシコサッカーを観戦しました。それもグアダラハラを本拠地とするチーム同士のダービーマッチ!チバスvsアトラスの試合はかなり熱かった。7万人を収容するハリスコ・スタジアムがほぼ満員に埋まっていた。実際スタジアムまでの道は渋滞が起きていて、バスが一向にこず、通りがかった観戦に行く車の荷台にのせてもらって、行ったほどだ。スタジアムにつくとすごい轟音が聞こえてくる。ファンが外で気勢をあげながら渦まきデモのようなものをやっていた。人を掻き分けて会場に入ると、20:45分に試合が始まるというのに20時には、多くの席は埋まっていたので、上の方の席に座る。11回優勝して全国的にも知名度のあるチバスのファンが圧倒的に多く、アトラスの応援団席に近いにも関わらず、半分ぐらいがチバスのファンだった。しかし自分は、ブラックとレッドのユニホームがあまりにかっこいいので、アトラスを応援することにする。選手がウォーミングアップのため入場すると、激しい野次の応酬が始まった。アトラスの応援団席から次々と発炎筒がグランドの方に投げ込まれ、スタジアム全体に煙のにおいが充満する。さらにブラックとレッドの旗を叫びながら熱狂的に振る様子は感動的な気分にさせる。人数は少ないが応援は過激だった。チバスの応援団席からも負けじと発炎筒が投下され、双方が応援ソングや応援コールを繰り返し、試合が始まる前から気持ちが高ぶってくる。
試合はチバスが押しながらも決定的チャンスをはずし0−0で前半を折り返します。後半にやっとチバスが先制すると、隣のチバスファンが甲高い悲鳴をあげて、喜びを表現するのには驚いた。それ以降、応援が激しくなり、野次の応酬やチャンスでの叫び声に熱を帯びてくる。下の席ではファン同士の殴り合いが行われて、あたりは騒然となりどうなるかと思ったが、1分ぐらいで収まり、試合に集中。アトラスのキーパーが相手のゴールまで上がってくるなど、最後まではらはらどきどきの展開が続いたが、そのまま試合は終わり、満足して帰りの途に着こうとする。バス乗り場の方に行くが、バスは余裕で満席になっていた。周りのサポーターは気にする様子もなく、徒歩で軽やかなステップを繰り出しながら帰りだす。自分もその巨大な人の流れに飲み込まれながら、歩いて帰ることにする。周りはチバスのファンばかりみたいだ。アトラスの応援団席は警察とガードマンに囲まれて、チバスのファンが掃けるまで会場に居残らせられている上に、そのほかのファンも多勢に無勢で隠れて帰っているのだろう。帰り道のサポーターは興奮さめやらぬようで、途中の交差点で道路ブロックをやって、車の流れを止め、パトカーの威嚇するサイレンの音が聞こえた。試合だけでなく、会場の外でも非常に熱い光景をみせるメキシコサッカーの観戦をまた行いたいと思う。

サッカーと闘争
サッカー観戦で思ったことについてコメントしたい。サッカー観戦で象徴的だったのが、普段自分のいるグアダラハラ中心部や大学で見ることができない、都市貧困層が大挙してスタジアムに押しかけていたことだ。グアダラハラの郊外には、レンガ造りの簡素な家や、木で作られた掘っ立て小屋が立ち並ぶ地区が延々と広がっている。その地区の人々が集団として集った時の迫力!応援や会場外のパフォーマンスはデモストレーションそのものだった。日常の生活の中で、社会的存在として認識されない人々が、その存在を可視化させることができるのがサッカースタジアムなのである。それはあたかも、いつか来るであろう闘争を先取りして演じて見せているような感覚に捉われる。サッカーの応援を通して集団としての共通経験を練り上げ、潜勢力として蓄積されているのだ。ファンの生き生きとした一つ一つの顔から、抑圧された状態から力が解き放たれた瞬間を一瞬だけ感じとることができる。
それだけでなくスタジアムは多国籍企業の宣伝の場として機能することへの、抗争の空間でもある。サッカ−と広告が絡み合いながら作り出す資本主義的欲望が場を支配しようとする下で、サッカーの応援が作り出すもう一つの自由への欲望が隆起しているのだ。それはお前たち(企業)のチームでなく「我々のチーム」として想像力の中で再構成することで、ヘゲモニーを転覆し、新たな空間を作り上げようとすることである。そのような集団的欲望と想像力の実験場としてサッカー観戦を捉えることができる。

アトラスの選手達

アトラスの熱い応援団

スタジアムの写真

10・2トラテロルコの虐殺!40周年

1968年オリンピックを直前に控えたメキシコで、自由と民主化を目指す学生運動が民衆と呼号しながら最高潮に達した時、悲劇が起こった。

「1968年10月2日早朝、警察と軍の部隊はメキシコシティのトラテロルコ広場に集まった学生たちに発砲を開始した。この虐殺がメキシコの歴史を変えた。犠牲者は公式の発表で26人だが、300人を超えたとする報告もある。この事件では誰も罰せられていない。・・・メキシコにおける民主主義のもっとも重要な戦いとして、そして同時に国家犯罪として歴史に残っている。」
68年「トラテロルコ」忘れぬhttp://www.news.janjan.jp/world/0701/0701278942/1.php
この虐殺事件とその後の逮捕拘留によってメキシコの学生運動は恐怖の沈黙を強いられらた。そしてそれによって「平和の祭典」オリンピックが粛々と開催できたのである。一方でこの運動は後の様々に隆盛した社会運動の源流になったと強く評価されている。(現代メキシコ史の授業レジュメで書いてた)
今日はトラテラルコの虐殺から40周年の日にあたり、この10月2日を「忘れない」とメキシコ政府に抗議するデモがグアダラハラ大学からありました。自分も参加しようと授業が終わってすぐに中庭に向かうとデモが出発したばかりでなんとか中に入れました。150人ぐらいで出発したデモは途中でほかのキャンパスからの人間や、学生以外のグループと合流し総勢1000人近くに膨れ上がりました。自分はグアダラハラ大学の学生の隊列にいたのですが、トラメガが一切なく、デモのあちらこちらからコールがあがり、周りがそれに声を合わせる光景が繰り広げられました。独自の歌のようなコールを手拍子したり、前後左右から次々に独自コールが起こり、即興性とノリのよさはすごいな思いました。
主張も色々で、当然「10月2日」と誰かが叫んだら、「忘れるな」とレスをするコールガ中心ですが、レインボーの旗をもった学生が「同性愛嫌悪」反対といったり、サパティスタに連帯するコールがあったり、本当に多種多様でした。興味深かったのが農民(CAMPESINO)という言葉がコールにかなり入っていたことです。日本だと都市部のデモで農民に連帯するコールが入るのは中々ないのとは対照的です。あと教会の近くを通ったらかなり盛り上がってブーイングのコールをします。どんな政治的対抗関係があるかよく分かってないですが、京都でマクドナルドの近くを通ったときにブーイングするのと同じ感じです。
あとデモの横に機動隊が着くことが一切なく、広がれ、途中のソカロ周辺では全車線使えたのは最高でした。機動隊に監禁された感覚が一切ないので、デモの中で自由を強く意識し、解放的な気分を満喫しました。交通警察とか機動隊とかがデモを包囲することがいかにデモ行為をストレスフルにするかを確認できました。日本特有のサンドイッチ規制は政治的自由への重大な抑圧であり、これは何とか戦わないといけないなあと思いました。
デモでは多くの、授業が一緒だったり、飲んだことのある知り合いの学生がいて、うれしくなりました。京都に帰ったら学生がデモにいく文化をもっと作りたくなりました。
セントロの広場では4人ぐらいが演説して、ライブ演奏をしていました。高校生やパンクスがかなりきていて、深夜まで踊りまくってました。
家に帰ってテレビを見ると、被害者の家族等の粘り運動によって、トラテロルコの虐殺が国家犯罪として最近になってやっと認知されてきた影響もあって、特集番組をやっていたり、ニュースでもメキシコシティのデモが大きく取り上げられていました。シティでは凄い人数が集まったみたいで、デモの映像は若者が警察をけったり、棒でたたいたりする場面や、ブランドショップの店内を破壊したり、ショーウインドウにスプレーで落書きをする場面を流していて、だいぶグアダラハラと感じが違うなあという印象をうけました。





追伸 エレナ・ポニトウスカの「トラテロルコの夜」という詳細なルポタージュが日本で翻訳・発売されているそうなので興味のある人は読んでみてください。(自分は未読で読んでおけばよかったと後悔)
あとがきのオクタビオ・パスの文章はネットで読めます
http://fujiwara-shoten.co.jp/main/ki/archives/2005/09/post_707.php
あと印象的な言葉の抜粋がネットに上がっていました。

残忍、野卑、憎悪、ありとあらゆる悪意に満ちた行動に支配されてしまった、トラテロルコのあの夜。あのときの驚愕と憤怒を正しく記録にとどめておく必要がある。
フランシスコ・マルティネス=デラベガ「我々の国はどこへ向かうのか」
『エル・ディア』紙 1968年10月8日

オリンピックを開催できるようにと学生が殺されているのなら、オリンピックなど行われない方がましだ。どんなオリンピックも、歴代のオリンピックを合わせても、学生一人の命には値しないのだから。
イタリア人陸上競技選手(第19回オリンピック大会イタリア代表選手メンバー)『オバシネス』紙、1968年10月3日

何もかも丹精こめて準備がなされた。巨額のお金が使われた。どんな細部も手抜きされることはなかった。各競技の入場券にも趣味のよさが光っている。案内板、パンフレットやプログラム、ポスター、エスコート役のスーツや広告、果ては風船に至るまでのでデザイン。各協議の実施時間の厳密さ、絶妙の運営組織、だからこそ残念でならないんです。第19回オリンピックが血に染まっていることが無念でなりません。
ベアトリス・コジェ=コルクエラ
(グラフィック・アート専門家・図案デザイナー)

映像は人を欺けないと思います・・・・私はニュース報道も写真も見ました・・・・
オクタビオ・パス

みんな死骸ですぜ・・・・
『エル・ディア紙記者、ホセ=アントニオ・デルカンポに対する、ある兵士の呟き
http://sachihoinny.blog.drecom.jp/monthly/200610/から転載

グアダラハラ大学3

今回は大学評議会の選挙について書きます。日本の大学で言えば学生自治会です。この1週間激しい選挙戦が行われていました。大学の校舎の壁という壁が、オレンジのポスターと、青のポスタ−に埋め尽くされました。また両陣営が配りまくったステッカーを学生が服につけて歩いているので、選挙がどこでも意識できて、活気がありました。自分としては自治会の執行部をやっていた時が思い出されて懐かしくもあり、もっとポスターとかカラーにしたり、ステッカーとかも作ればよかったなあと色々刺激を受けました。ちなみに正規の学生として卒業単位をとる人しか投票権がないらしいので、自分は投票はできませんでした
選挙の方法も自分の大学とは違っています。評議員を選んでそこで執行部を選出するとかでなく、いきなり執行部をキャンパス(自分のいるのは経済学以外の人文・社会科学が集まるCUCSH)の全学生の直接投票で選んでしまうというのです。確かに直接民主主義をより実践しているように思うのですが、執行部のチェックはどうするのか疑問がでます。全学生が参加する学生大会でも開くのなら面白そうですが。もしあるならぜひ参加したいですね。
あと各学部の執行部をばらばらに個人で選ぶのではなくリストとして一括で選ぶ方式は新鮮でした。具体的にはオレンジのリスト(NARANJA)とブルーのリスト(AZUL)が争っていました。オレンジのリストが現在の執行部で、大学学生連盟(FEU)という団体です。選挙戦も一番活発にやっていて、あらゆる授業の最中にクラス入りし、アピールを行っていました。教員もかなりクラス入りにフレンドリーで、穏やかに笑顔で応対していました。もし日本の大学で同じことをやったら、多くの教員が激怒しているやろうなと思いながら、何言っているかほとんど聞き取れずでした。
オレンジのリストの候補者に主張を聞こうと話したのですが、やっぱり語学力のなさからピラミッドではない誰もが平等なのが大学評議会だとしか分かりませんでした。しかし学費の話になりグアダラハラ大学は一年に100ペソ(1000円程度)しか授業料しがいらないと分かりました。日本の国立大学は
535800円であると伝えると驚いた顔を見せ、それからその不当性の話で盛り上がりました。長く話したためかオレンジリストにシンパシーが沸きました.
帰ってから両方のパンフレットを読むと
オレンジリストは
①教師による単位の不当な評価をさせないメカニズムを作る
奨学金と授業料免除の適用の拡大と信頼ある制度に(政治的な適用をさせない)
③芸術・文化活動への援助とイベントスペースを確保する
④官僚制度と複雑な制度をなくしてほかの学科の単位の交換をスムーズにする
⑤社会活動・社会福祉の拡大
ブルーリストは
①大学評議会のホームページを作る
②大学評議会の新聞をつくる
③多様性のあるよう授業科目を増やす
④各種大学内の手続きのためのオリエンテーションの開催

社会福祉、社会活動の拡大で思ったのは学生はメキシコではかなり優遇されています。公共交通(バス、地下鉄)、各種公共施設(美術館等)が半額になります。日本の学割は、量が少ないし、あってもちょっとしかされないのと大違いです。特にグアダラハラは車の往来が激しく危険なので、ほとんど自転車を乗っている人がいなく、公共交通が半額なのは学生にとって助かります。しかしメキシコにいるとますます学費が日本は高いことに対して怒りがわきます。

大学評議会の部屋。6畳ぐらいの狭い部屋にポスターがたくさん貼られている。

校舎中に張られる、オレンジとブルーのポスター

オレンジリストのポスター。より良い評議会を選ぼう!オレンジに投票を!

ブルーリストのポスター。もう一つのCUCSH(グアダラハラ大学社会・人間キャンパス)は可能だ。決断を!

双方の政策パンフレットとステッカー

大学の生活2

すいません。前回の記事でサークルが少ないと書きましたが、結構スポーツ系のサークルがありました。柔道や空手があるなど格闘技系のサークルは盛んみたいです。英会話のサークルとかもありました。グアダラハラ大学の壁はそこら中にビラやポスターが張っています。見ていて活気があり楽しいです。当然大学主催の企画も容赦なく張りまくっています。掲示板はあるにはあるんですが、当然そんなんでスペースが足りません。昔の自分の大学を見ているようで懐かしいです。
グアダラハラ大学では毎日のように、大学が企画した講演会やシンポジウムが行われています。でもその宣伝が数日前にしか行われていなくて、気づいたら終わった講演会もありました。残念。最近自分のいったのは
「メキシコと世界における選挙と社会運動、革命に関する国際シンポジウム」です。
発表内容は
フランス革命メキシコ革命の比較分析とラテンアメリカにおける影響」
20世紀と21世紀の社会運動と革命
 「サパティスモと政治の新しい形態」
 「メキシコ革命の政治形態」
 「サンディカリズムメキシコ革命
現代の革命
 「キューバ革命:21世紀の注目」
 「ロペス・マヌエル・オルブラドール現象」
 「2006年 AMOLの運動とビロード革命
 「韓国の社会運動:サイバースペースと街頭の狭間」
 「キューバ革命ラテンアメリカにおける意味」
   以下省略
と恐ろしく多彩かつ膨大な発表が行われてました。自分が面白かったのは教員がサパティスタが生み出した政治形態の意義を発表したときです。発表後、学生活動家が国家権力を握る必要性があるのではないかと食ってかかっていた場面でした。双方の応酬に迫力がありました。あと韓国での「ロウソク集会・デモ」に代表される、社会運動についての発表です。インターネットの重要性について繰り返し強調していました。東アジアの社会運動の状況がメキシコまで注目されて紹介されている状況があります。自分もメキシコの社会運動のレポートを日本に送って刺激を与えられたらと思います。
社会運動といえば、グアダラハラ大学には社会運動研究学科という学科があります。修士課程以上の学科らしいのですが、社会運動研究が学問として大きな比重を占めている状況に驚かされます。自分も次のセメスターには顔を出したいと思います。
すでに自分は歴史学部の人類学専攻の授業で「社会運動学」という授業にでています。道路封鎖の話をしてたり、潜勢力と顕在力をアントニオ・ネグリの議論をもとに展開したりしています。チンプンカンプンですが、教員の話している形相がすごくて、面白いので、毎週いくのが楽しみです。

野球サークルの勧誘ビラ

校舎の壁に無秩序に張られたビラ

グアダラハラ大学の危機と民主主義」という野外集会を呼びかけるポスター

実際の野外集会風景。机といすとマイクロフォン、横断幕をだしている。新聞報道によると前学長は「まだ私が学長だ」と言っているらしい。

国家・社会学部の学術委員会が出しているPEMEX(メキシコ石油公社)の一部民営化・外資導入反対の横断幕。アメリカがPEMEXをおいしくいただこうとしているのを風刺している。